1980年代 留学日記から

1985年にオープンしたヤラルト映画館(1986年7月)
1985年にオープンしたヤラルト映画館(1986年7月)

私のモンゴル5

文化・芸能レポート②

映画その1<歴史もの>


 モンゴルでもっともポピュラーな娯楽の一つは映画。子どもからお年寄りまで皆よく見に行っている。果たして理解できるのだろうかと見える小学低学年の子どもも放課後、友だち同士でよく映画館にやってくる。映像が乱れたり途切れたりしたとき、ピーピーと指笛を鳴らしたり、ブーブー文句を言い出すのは大概、小中学生の男の子のようだ。もちろん、晩方になると映画館はカップルが多くなり落ち着いた雰囲気になる。

 ウランバートルの主な映画館は6館。このうち最も新しいのが対日本軍国主義戦勝40周年記念として1985年にオープンした、その名もヤラルト(勝利)映画館。日本の技術が入っているとかで、スクリーンが大きく音響もいい。この映画館で見た「戦争と平和」(1982年、ソ連映画)は大迫力だった。

 ソ連、東欧、インドの映画も見に行ったが、モンゴル映画はモンゴル語の力をつける意味で、また、モンゴル理解の一つの手段として半ば義務感で見ていた。モンゴル映画の新作は年間5~6本。古い映画をテレビで見ることもあった。

 大きく分けて歴史ものと現代ものに分けられる。

 歴史ものでは何といっても「ツォクト・タイジ」(1945年、監督:Y・タリチ、M・ボルド、M・ロブサンジャムツ)が不朽の名作にかぞえられるだろう。スケールが大きく、構成、カメラワーク、演出など、どれをとっても完成度が高い。17世紀前半、清の支配から独立を守るために先頭に立って戦ったツォグトタイジの物語だ。ツォグトタイジを美化しているきらいはあるが、これだけの作品はまだ出ていないのではないだろうか。

 「エフ・ブルドの伝説」(1975年、監督:J・ボンタル、G・ジグジドスレン)も心に残る秀作。モンゴル的なものが芸術性高く発散している。ストーリーはよく覚えていないが、モンゴル中世の野生的で戦闘的な雰囲気、男のたくましさ、女の強さ・気高さ、男女の一途な愛が織り成す映像美にすっかり魅せられた。

 「人民アヨーシ」(1984年、D・ジグジド監督)は牧民運動の指導者アヨーシの不屈の闘いを描いている。

 「人民の使者」(1959年、D・ジグジド監督)は革命前、ウンゲルン白衛軍侵略時代に「人民の使い」として革命のために活躍する女性を主役にしている。

 革命後間もない移行期の混乱を背景とした「贋金の謎」(1985年、B・バルジンニャム監督)はモンゴルでは珍しい推理もの。時は1928年、ちょうどモンゴルの国家貨幣が流通し始めた頃、ある中国人商人によるニセ金事件をモンゴル当局のナムジルが顧客になりすまして解決するという話だ。当時のウランバートルなどの都市の様子や、中国商人がまだ力を持っていた状況がよくわかる。

 対日本軍国主義戦勝記念で制作された「私たちは忘れない」(1985年、Kh・ダムディン監督)の原作はD・センゲーの小説『アヨーシ』。第二次大戦中、日本軍との戦闘の功労者アヨーシの活躍を、恋人ボルマーとの触れ合いを織り交ぜて感動的に描いている。しかし、日本兵のひどくおかしな日本語や日本人女性の変てこな着物姿が出てくるのには興ざめする。衣装や調度品など日本の小物類を集める苦労も想像できる。本来なら、モンゴル・日本合作で作るべき映画だろう。我々にとっても、いや我々日本人こそ、アヨーシとボルマーの仲を引き裂いたあの戦争の罪を忘れてはならないのだから。


(モンゴル研究会会報『ツェツェックノーリンドゴイラン』1988年5月号掲載)

*映画の邦題、監督名はパンフレット「モンゴル映画祭」(1998年、国際交流基金アジアセンター)による